青峰と1on1をするのは三ヶ月振りだ。
驚きで見開かれた目はいつもより少し幼くて、どこか胸が温かくなった。
転がってきたボールを拾ってゴールへ放るとすんなりリングに吸い込まれていく。
青峰は動かずジッと黄瀬を見ている。
その様子に口角を上げ、ゴールリングを指差して言った。
「俺の一本先取ッスね」
その言葉にハッとし、青峰はボールを拾うと今の卑怯だろとブスッと顔を膨らませた。
その顔が可愛く思えて笑いが抑えきれない。釣られて青峰も笑った。
それが眩しくて、そういえばそうだったと、この人は太陽みたいに笑う人だったと、ふと懐かしく感じた。
「光」だと思った。それは黒子の言う意味と似ているようで少し違う。
青峰は黒子にバスケで生きる道を与えた。そして黄瀬涼太に与えたのは「バスケ」そのもの。
青峰大輝という人間に会わなければきっと今みたいに毎日を楽しいとは思えなかった筈だ。
傲慢で卑屈、大人の前では猫を被り、内心では悪態ばかりで他人が馬鹿に思えて仕方なくて、自分は勝ち組だと思い込んでいたあの時、あの瞬間に光が差した。
青峰のプレイは全ての人を魅了する力がある。それは俺も例外ではなかった。
くすんだ世界に色が着いて、それは今まで見てきた何よりも鮮やかに輝いていた。
俺は青峰大輝と言う一人の男に目を奪われたんだ。
それを今の今まで忘れていた訳じゃない。けど、分かってなかった。
それが俺の中でどれだけ救いになっていたのか。
それほどの男がこんな汚い自分を「好きだ」と言ってくれるのがどれほどのことなのか。
この三ヶ月間を埋めるように何度も青峰に向かっていった。
部活後の疲弊した体は息を切らしながら汗を滝のように垂れ流す。
酸欠で倒れそうな体を両足で支えるが既に力は思うように入っていない。
青峰が流石に切り上げようと声を掛けるより先に黄瀬は言った。
「青峰っち、もう一回」
体は震えて、服は汗で皮膚に張り付いて気持ち悪いし吐きそうだ。
それでも黄瀬は笑って言った。
「もう、一回」
青峰は呆れたように溜め息をつきながらもボールを黄瀬に投げた。
「………バーカ、後一回だけだからな」
そう言った青峰はどこか嬉しそうで黄瀬もまた笑った。
久し振りの1on1は体が燃えるような熱さを伴っての真剣勝負。楽しくない訳がないんだ。
至近距離で睨みを聞かせた青峰がボールを奪い、ゴールに駆けていく姿を追いながら見惚れた。
あぁ、やっぱりこの人は誰よりも何よりも眩しくて、格好良い。
この蒼い存在にどこまでも惹かれていた。
「本当………かっけぇな」
この想いの答えはもう出ている。
灰崎に対する気持ちと似て、けれどそれよりも喉の奥をさらりと過ぎ去っていくような、ささやかで綺麗、それでいて存在を乱暴に主張するソレ。
考えれば考える程胸が熱くなる。だからもう潮時なんだ。
この恋を自分の手で終わらせるには今がきっと一番良い。
*****
いつもは屋上で話すが今日は人気のない校舎裏に灰崎を呼んだ。
本人はなんでお前の指図を受けなきゃなんねーんだとかなり不服そうだったが言われた通り来てくれた。
屋上だとまず間違いなく青峰と虹村に見つかってしまうため、今日は裏をかいてベタな校舎裏にした。
今日だけは見つかる訳にはいかない。
「んで?何だって今日はここなんだよ」
「誰にも邪魔、されたくなかったんで」
ニコリと笑うと灰崎が眉を潜めた。石段に腰を下ろすと渋々と灰崎も隣で胡座を掻く。
校舎裏は丁度影が差しており、風も涼しい。自然と心が落ち着いた。
二人とも視線の向く先はバラバラだったが、黄瀬は灰崎に何でもないような自然な口振りで聞く。
「ショーゴ君が主将を好きになったきっかけって何?」
「!」
灰崎は勢いよく黄瀬を見たが黄瀬は至って普通で、取り乱したことが気恥ずかしい。
黄瀬がどこかいつもより大人びて見えて、調子が狂うなんて言わないけど。
それでもこの落ち着きはなんだ。
「前聞いた時は教えてくれなかったじゃん?だから、聞きたい」
「………お前、なんか変だぞ」
「はは、そっスかね」
「まあ……いいけどよ」
「えっ!いいんスか!?」
「お前自分から聞いといて………誰にも話すんじゃねーぞ」
分かってるって!と笑った顔はやはり何処かいつもと違う。
問いただした所で答えを得られる訳じゃないのは分かってるから聞かないが。
黄瀬から顔を逸らし、正面の植木を見ながらゆっくりと話し始めた。
******
それは中学二年、黄瀬がバスケ部一軍に入ってから半年程経った頃。
一年の時から素行不良の灰崎を執拗に追い回し、躾と称した制裁を食らわせてきた虹村は本当に鬱陶しい存在だった。
何処にいても自分を見つけ出す虹村に対し、まさか発信機でも付けられているのではないかと疑うこともしばしばだ。
しかし、そのしつこい姿に退屈な毎日がどこか楽しさ(多少のスリルが伴う)を含んで前とは違うような、そんなムズ痒さがある。
たまに練習に出れば嬉しそうにニヤリと笑う悪人じみた顔も嫌いじゃない。
それどころか胸の中が熱くなって自分じゃないみたいな、まるで知らない誰かの感情を代弁してるのではないかと言いたくなるような気持ちになる。
そんなある日、灰崎は初めて丸一日虹村に見つかることなく部活を朝から放課後までサボることに成功した。
朝練はいつも虹村が迎えに来るため、その日はわざわざ早めに家を出て学校から遠回りの道を選び、屋上ではなく自分の教室に行った。
この程度の策なら虹村に見つかってもおかしくなかったがその日は何故か遭遇しなかった。
それがほんの少しだけ自分の中に引っかかりを残したが気にせずに一限目が始まる頃には屋上に出向いた。
「あー………今日は久々にサボれたな」
日陰で仰向けに寝転がりながら独りごちる。
誰に何を言われるでも殴られることもなく、自分の好きなようにサボれる、こんな快適なことはないだろう。
そもそも自分を探しに来るのは虹村一人であり、それ以外は関わり合いになろうとはしない。
だから虹村さえ居なければ今日のように毎日でも部活をサボっていられる。
いつもこうだったらいいのにと思う半面、極わずかではあるがつまらないと感じてしまうのは気のせいなのか。
いや気のせいであって欲しい。
「………クソ……」
何で来ねーんだよ、なんて死んでも言ってやんねぇ。別にあんなヤツ来なくたって構やしねーし。
大体主将なんつー便利なポジションに居るなら手っ取り早く退部でも何でも無理やりさせりゃいいんだ。
それをわざわざボコしてまで部活に連れて行くなんてこっちも迷惑だし、部の連中も良く思わねーだろうに。
ほんとに意味分かんねえ。
あ。あぁ、そうか。だからか。
「だから、来ねぇのか…………」
静かな屋上で小さく呟いた声は何かを諦めたように低く乾いた音で消えていった。
その後の授業はどれも出る気がせずに全てサボった。
全ての授業をサボったことは流石に一度もないが、この日ばかりはどうしても誰とも接触したくなかった。
教師に小言を言われて殴らない自信もない。そうやって眠っているとあっという間に外は暗くなった。
運動場を見ると野球部が道具を片付けているのが目に入る。
体育館に目をやればすでに電気が消されており、部活が終わったのだと分かる。
灰崎が何を思ったのかは分からない。そして灰崎自身、自分が何を考えているのか分からなかった。
分かるのは足が体育館に向かって勝手に歩き出しているということだけだ。
「…………」
体育館に着くと鍵はまだ閉まっていなかったが、人の気配はなくシンと静まり返った体育館の中で灰崎は部室に向かった。
部室も開いていたが誰もいない。
大方鍵を締め忘れたんだろうと辺りを見回すと少し汚れた己のロッカーが目に入る。
中を開ければ雑誌やらゴミやらが詰め込んであった。
そういえば雑誌返してねーな、とのん気にそれを手に取りパラパラとページを捲る。
すると途端に視界が明るくなった。
「灰崎?」
「え」
完全に油断していた。
呼ばれた声に振り向くとそこに居たのは見間違うはずもない人物で。
電気を点けたのが彼だと知る。頭の中で警報がけたたましく鳴り響くのが聞こえた。
「虹村、さん」
「お前こんな場所で何やってんだよ。部活もう終わったっつの」
「部活なんかやりに来るわけねーだろ、バカじゃねっいだだだっ!!頭!頭割れる!!」
無言で頭を鷲掴み握り潰そうとしてくる相手に灰崎は激痛のあまり涙目になった。
「敬語は?」
「スミマセンでした!!」
「よし」
痛む頭を押さえながら虹村を睨むと睨み返されたため慌てて目を反らした。
中学生の人相じゃねーよ、この人!
虹村は灰崎を見下ろしながら詰め寄った。
「で?お前は何でココに居るのかな、部活サボった灰崎君よぉ」
こえーよ!!と逃げ出しそうになるが出口側に虹村が立っているためそれは不可能だ。
虹村の殺気だった目に思わず俯くと手に取っていた雑誌が目に入る。
そうだこれだと閃いたかのように勢い良く顔を上げた。
「ざ、雑誌取りに来ただけだ!明日返さなきゃなんねー、か、ら?」
またもや頭を鷲掴まれる。
「ほほーう、お前は部活はサボってもいいけど人に借りたモノはちゃんと返すんだな?それは部活より大事なことか?あぁん?」
「痛っ!痛い!痛いって虹村さん!」
「サボるお前が悪い」
手から滑り落ちた雑誌がバサリと音を立てて地面に落ちた。
自分だって何故誰もいない体育館に来たのか分からないんだからしょうがないだろと言ってやりたかったが、そんなことを言えばまたややこしくなるのは目に見えている。
俺は別に悪くない!とは言い切れないが少なくとも自分だけのせいではない。
灰崎は虹村から目を反らし、八つ当たりのように言葉をぶつけた。
「んなに言うならアンタが連れて来れば良かっただろ、いつもみたいに………」
「お前………まさか俺が行かなかったから拗ねてんのか?」
「んなわけねーだろ!ちげーよ!!」
噛みつく勢いで否定すれば虹村は楽しそうにニヤニヤと口角を上げて笑っていた。
馬鹿にされたと感じた灰崎は思わず拳を振り上げるがいとも簡単に受け止められる。
未だニヤニヤしている虹村を下から睨むことしか出来ない。
虹村は逆らえない灰崎の反応を楽しむと漸く手を離してやった。
「今日は朝からミーティングだったんだよ。だからお前のこと探せなかった」
「は?んなこと誰も聞いてねーし」
まるで言い訳のような言葉に灰崎は舌打ちをするが虹村は気にせず続ける。
「ま、一応お前の家行ったんだけどお前もう家居なかったし時間もねーしで仕方なく朝は諦めてやった。昼は委員会あったから一緒にメシ食えなかった。放課後は放課後で委員会あったから探せなかった」
「だから、聞いてねーって………」
そうは言っても内心、何処かでほっとしている自分に悪態を吐く。
なんだよコレ、わけ分かんねぇ……
諦められた訳じゃない、たったそれだけのことだ。
たったそれだけのことにどうしてこんなに動揺しないといけねーんだよ。
虹村はそんな灰崎の気持ちを知ってか知らずか優しく頭を撫でた。
その感触にジワジワと顔が熱くなるのを感じる。振り払いたいのに何故か出来なくて。
「灰崎」
「…………」
虹村と目を合わせた瞬間、視界が真っ暗になった。
何も見えない。
「え、なに」
「あー、多分停電だろ。この間もなったしな」
「そうなんスか………うぎっ」
ズルッと何かで足を滑らせた瞬間、そういえばさっき雑誌落としたなと冷静に分析していた。
そして体は前へ、重力に従って倒れていく。
あ、やべぇと思う間もなく目の前の胸板に飛び込んだ。
身体はきちんと受け止められ、床に倒れることはなかった。
「お前な………足元よく見ろよ」
「見えねーから滑ったんだよ!」
離れようと目の前の自分より幾分か厚い胸板を推すがビクともしなかった。
首を傾げ、虹村を見上げるとそのまま肩口に顔を押し付けられる。
後頭部を掴んだ虹村の手が肩に押さえつけてくるのだ。
しかもよくよく感覚を辿れば腰を引き寄せるように支えられており、端から見れば抱き締めているように見える。
「虹村さん……?え、これ、は」
どういう状況デスカ、なんて聞く勇気はなくどもった声だけが残る。
もしやこのまま絞め殺されるのではなかろうかと自分の嫌な未来が見えるようだ。
少し強まった虹村の腕の力に体が緊張する。
一瞬、本当に絞められるんじゃ……と思ったが杞憂に終わり、仕方なく虹村に体を預けた。
正直突き飛ばしてしまいたかったが、その後のことを考えるだけで足が竦んだため止めた。
大人しく抱かれていると耳元で名前を呼ばれる。
「灰崎」
「何スか……」
「悪かったな、今日」
何に対しての謝罪の言葉なのかは直ぐに分かった。
本当なら虹村が謝らなければならない道理は全くないが、それでもその言葉は灰崎にとって意味のあるものだ。
虹村にとって灰崎は価値のある人間だという証明にも近い。
身体の芯が熱い。抱き締める腕の心地よさに顔を擦り寄せる。
心臓がジンと痺れるような熱さに頭が朦朧とした。
「明日からまた行ってやるから、待っとけ」
「…………イヤダ」
「お前………ほんと素直じゃねーな」
「うっせ」
密着した身体は汗臭くべたついているのに、虹村の匂いだと思うと離れがたい。
今なら突き飛ばして逃げられる位腕の力は緩んでいるというのに、出来ない。
こんな感情、俺は知らない。いや、違う。俺はもう知ってる。
これが何なのか。これがどれだけ厄介な感情なのか。
「なあ、灰崎」
呼んだ声は優しくて、思わず涙が滲みそうになるが必死に押し殺す。
虹村は灰崎の耳元で言った。
「明日も明明後日も俺が見つけられる、目の届く範囲にちゃんと居ろ。そしたらどんだけお前が反抗ししても絶対探し出して連れてきてやる。俺はお前のことちゃんと見てんだから、お前も偶には自主的に来い」
なんだよ、それ。と呟いた筈の声は音になってなくて、喉の奥に消えていった。
何でこの人は俺なんかを必要とするんだ。
俺の代わりなんか幾らでもとまでは言わないが、少なくともリョータがいる。
俺何かより、ずっと素直で真面目なアイツ。
アイツより俺の方が大事なのかよ、とまでは自惚れてはいないが、けど多分、この人にとって俺は周りの奴らとは違う。
それが嬉しいなんて思う自分はきっと頭がおかしい。
速まる鼓動が伝わらないように微弱な力で推すと虹村はゆっくり離れていった。
ここが真っ暗で良かった。そうでなければこの情けない顔を見られていただろう。
「帰るか」
「………おう」
荷物を掴んだ虹村の後に続いて体育館を出た。
鍵を職員室に返しに行った後は二人並んで帰宅した。
触れるか触れないかの距離がもどかしいようで、逆にもう少し離れて歩きたい気持ちとが正面衝突する。
横目に盗み見た虹村の顔は楽しそうでこっちまで表情筋が緩みそうだった。
******
「別に大した話じゃねーだろ?」
他人からすれば些細な出来事だ。何の感情も揺さぶられない。
それは目の前に居るコイツにも言えることだ。そんなことで?と、安いヤツだと笑えばいい。
そう思って黄瀬を見ると、馬鹿にする所か真剣な顔付きで話を聞いていた。
心なしか体が震えている。
灰崎には黄瀬の何処か哀しげな表情の意味も、震えている肩の意味も理解出来なかった。
「他人にとっては大したことなくても、ショーゴ君にとって、それは大事なことだったんでしょ?」
「……………」
「俺はそれが大したことない、なんて思わない。あの人やっぱすげーよ。…………俺じゃ、全然」
適わない。最後の言葉は言わずに飲み込んだ。
その頃の俺は、なんて考えないし考えたくもない。
けど、多分あの時あの空間で灰崎が求めていたモノと同じ意味で灰崎を求めていたのは虹村だけだ。
虹村だけが灰崎が欲しがるモノを理解し与えることが出来ていた。
虹村だけが灰崎を求めていた。灰崎が虹村に惹かれるのは至極当然だ。
自分は何も灰崎に出来ない。灰崎自身、自分に求めてこない。
決定的なまでの自分と虹村の違い。灰崎が自分を好きにならないのは当然じゃないか。
分かってたことだ。だから今更傷付いたりはしないし後悔もしない。
それに、思ってたよりも痛みがないのは今の俺に灰崎よりも想える人が居るからなんだろう。
そうでなければ今頃気分はどん底だ。
「ねぇ、ショーゴ君」
「あ?」
「告白しなよ」
「は?」
眉間に皺を寄せ黄瀬を凝視する灰崎に黄瀬は困ったように笑った。
そして灰崎の頭に手を伸ばし優しく撫でる。
灰崎はそれを振り払うこともせずにただ黄瀬を見たまま動かない。
黄瀬の真意を探ろうとしているのか、何も言葉を発さずただ見つめている。
「俺は、大丈夫だと思う」
「………」
口を開き掛けた灰崎の声を防ぐように黄瀬は言った。
「無責任だとか思うかもしんないッスけど、俺はちゃんと伝えた方が良いと思う」
「……………なんで、テメェは……」
皆まで言わず口を閉じた灰崎の言葉の続きを黄瀬は代弁する。
アンタのことならなんでも分かるよ、と。
「なんで俺がショーゴ君にこんなに協力的なのか。それは俺が告白出来なかったからッスよ」
「?」
「早く告白すれば良かったのに、意地になって出来なかった。告白してれば多少は何か変わったのかもしれないのに。ま、もう過去のことなんスけど」
灰崎は自分と違うようで根本的な部分が似ている。自分のことが一番で、だからこそ自分以外は認めたくない。
仮に誰か自分以外の人を認めた時はその人が自分の全てになる位溺れてしまう。
けどそんな自分を誰にも見せたくないから、隠して、隠して、隠して、自分の中に仕舞い込もうとする。
意地っぱりで可愛くない自分を責めて、誤魔化して、目を瞑る。
表面上はこんなにも違うのに、本質はこんなにも似ている。だからこそより惹かれた。
「告白して、上手くいったらマジバで奢ってあげるッス」
中々素直に告白出来ない自分を茶化しているわけじゃない、それは灰崎にも分かった。
そもそも灰崎には告白する気なんてものはこれっぽっちもなかった。
協力すると言った黄瀬もそれは分かっていた筈だ。
それなのに今更そう言うということは、黄瀬自身色々思う所があったんだろう。
普段なら、なんでテメェの指図受けなきゃなんねーんだと一蹴する所だが、灰崎は溜め息を吐いただけ
だった。
「…………いいぜ」
「え………」
「だからお前……自分から言い出してその反応止めろ。その代わりマジバ奢れよ」
「お、おう!任せろッス!」
予想外の灰崎の返答に黄瀬は動揺しつつもガッツポーズをしてみせた。
そんな黄瀬に灰崎はふ、と耐えきれない笑みを零した。
その顔に何も感じない程黄瀬の心は冷めていない。
つい最近まで好きだった相手だ。以前のように燃える気持ちはない。
けれど、初恋というしょっぱくて苦い経験を耐えしのいだのだから最後に思い出だけは貰ってもいいんじゃないか。
そう誰かが耳元で囁いた気がした。
「ね、ショーゴ君」
「あ?」
急に立ち上がり、目の前に移動した黄瀬を見上げる。
石段に座ったままの灰崎を見下ろしながら、優しい顔と声で訴える。
「今まで相談とか協力してきた御礼くらい貰っても良いッスよね」
「は、」
灰崎の目が見開かれる。
それと同時に黄瀬は腰を屈めて灰崎の輪郭に指を滑らせる。
そして掠め取るように、けれど離れがたいと名残を残すように唇を触れ合わせた。
触れた箇所の熱が自分が今していることの証明をする。
触れて静かに押し付けるだけの、キス。
今までしてきたどのキスよりも違う熱を持って、離れていく。
「………お前………」
灰崎が何か言うより早く、黄瀬は灰崎から視線を反らした先を見てポツリと声を漏らした。
「あ、やべ………」
「は?」
何がやべーんだよ、と黄瀬の視線の先を追う。
その視線の先に居た人物を見て灰崎の思考は固まる。
しかもバッチリ目まで合ってしまった。
「虹村、さん」
「あー………すまん、見るつもりはなかった」
物凄く気まずそうに視線をずらし、邪魔したな、と去っていく後ろ姿に灰崎は唖然とする。
角を曲がり姿が見えなくなった所でがくりと肩を落とした。
若干放心している灰崎に黄瀬はあちゃーと頭を押さえながら向き合った。
「ショーゴ君、とりあえず後で謝るから今は虹村さん追いかけて」
「はあ?ムリ」
「俺が言える立場じゃないけど、今すぐ追いかけた方が良い。そんでもうそのまま告白してきなよ」
「お前………ほんと勝手な奴だよな」
そう言いながら立ち上がる灰崎はどうやら黄瀬の言った通り行く気らしい。
口角を上げた黄瀬に舌打ちをすると、拳を黄瀬の胸に強く押し付けた。
「言っとくけどな、追い掛けるだけだ。告白するかしないかは俺が決める」
睨み付ける鋭い目に背筋がゾクリと震えた。
何も言わない黄瀬に灰崎は背を向け走り出したが、数メートル離れた所で振り返った。
そして相変わらずの面倒くさそうな顔で言葉を捨てるように吐き出した。
「テメーはテメーで考えてちゃんと言えよ、バーカ」
その言葉の意味を黄瀬は瞬時に理解した。
灰崎は自分に何も求めていない。そして黄瀬にも自分に求めて来るな、と。
俺は俺、お前はお前だと、誰にも何にも代われないただ一人の存在。
いくら似ていても違う存在で、それは重なることはない。
だからこそお互いが惹かれた存在は全く別のもので。
灰崎は最初から分かっていた。灰崎に惹かれていたこと、灰崎に惹かれながらも別の存在に心奪われていたこと。
だからこそ何も追求しないし見ない振りをしていた。
黄瀬は既に見えなくなった灰色の頭に静かに零す。
「…………ありがと、ショーゴ君」
それだけ言うと、灰崎が向かった方向とは反対に歩き出した。
灰崎に押された背中。それが原動力のようになって歩く足を早める。
ジッとなんてしていられない。早く会って伝えたい。
誰でもない、たった一人だけを想うこの気持ちをぶつけて、初めて口に出す言葉。
校舎の角を曲がるとそこに居たのは今し方向かおうとしていた人だった。
今日は何てタイミングが悪いのか良いのか分からない日なんだ。
「青峰っち」
「あー………」
気まずそうに出された声から察するに今のやり取りを見ていたか聞いていたかしたんだろう。
盗み聞きするつもりじゃなかったと言う青峰に黄瀬は小さく吹き出した。
「別に怒ってないッスよ。ショーゴ君は虹村さん追いかけて行って俺は青峰っちに会いに来た、それだけのことなんで」
大した内容じゃないから盗み聞きしても問題ない、と笑った黄瀬に青峰はホッと息を零した。
黄瀬は壁に凭れ佇む青峰の隣に並び同じようにコンクリートに凭れた。
青峰を横目で見ると青峰もこっちを見ていて少しだけ気持ちが高陽する。
視線が重なる、たったそれだけのことが己を波立たせて不安定に揺らす。
そこに居る確かな存在に触れたい。触れて確かめたい。
その衝動に従うように黄瀬は顔だけ青峰の方へ向けると首を伸ばし唇をそっと重ねた。
一瞬で離れたそれに青峰は瞬きを数回して、唖然とする。
「ショーゴ君から貰った御礼のお裾分け」
イタズラが成功した子供のような笑みに見惚れるが、それよりも青峰はその台詞の意味に食らいついた。
「お裾分けって、おまっ……!」
見開かれた青峰の目は怒りよりも驚きの方が色濃く映し出されていて、そのおかしさに黄瀬はまた笑った。
青峰は優しい。こんな面倒くさい自分を好きだと言ってくれて、強引に引き摺り込めばいいのにちゃんと待ってくれていた。
好きになる確証なんか何処にもないのに。それでも諦めないでいてくれた。
それが俺には眩しくて、手を伸ばせば焼けてしまいそうな程熱い想い。
「ショーゴ君とのことはもう終わったッスよ」
「は?」
そうだ、終わったんだ。灰崎は虹村に惹かれ、自分は目の前のこの男に惹かれた。
たったそれだけのことだ。触れた皮膚の熱さがそれを証明してくれた。
黄瀬は青峰に向き直りその手首を捕らえ、己の胸部まで持ち上げた。
「ショーゴ君とキスした時、俺……別に普通だったんスよね。そりゃ、多少は思う所あったけど、こんなもんかって」
ずっと触れてみたかった。好きになってからずっと考えていた。
あの唇に触れたらどんな感触がするのか、どんな反応をしてくれるのか。
あんなにも焦がれていた行為。なのに、それなのに。
「ショーゴ君としたキスより、アンタとしたキスの方が………ココが熱くなったんス」
青峰の手の平が心部に触れるよう、静かに押し付ける。服越しに伝わる体温は温かい。
通常より速く脈打つ鼓動がどうか伝わりますように、と想いを込めて静かに目を瞑った。
聴こえる音は風に揺れた木々が重なり合う音とお互いの呼吸音、そしてドクドクと忙しなく血を送る心臓の音だけだ。
耳鳴りのように鼓膜に響くこの音がちゃんと伝わっているだろうかと目を開けると、揺れる蒼い瞳と視線が交わった。
何かを耐える目に黄瀬は溶けるように笑み、告白する。
「好き」
青峰が唇を噛み締める。
そして黄瀬はもう一度、その想いを言葉にした。
「俺、青峰っちが好きなんス」
少しだけ震えた声は何も言えないままの青峰に飲み込まれていく。
優しく塞がれた唇は前よりも焼けるように熱い。こんな熱俺は他に知らないし、知らなかった。
好きな人とするキスがどれだけ幸せなことか知らなかった。触れている部分から止めどなく想いが溢れる。
この人でないと駄目なんだと思い知らされる。
「……は、…………青峰っち」
「黄瀬…………好きだ」
言われた言葉にまた心臓が熱を帯びて堪らなくなる。
どちらも同じ位朱に染まった顔を隠すように顔を背けたが、緩く繋いだ指先は離さなかった。
触れているのにもどかしい。もっと近付きたい、もっと繋がりたい。
この人のことが好きだ。俺は今、この人に恋をしている。
だけど、俺は確かに灰崎祥吾という人間を想っていた。
掴み所がない、独りという言葉が異様に似合うあの男が愛しくて仕方なかった。大切にしてあげたいと思った。
この人の根本を理解してやれるのは自分だけだと自惚れていた……いや、そこに関しては自惚れではなかったかもしれないが。
自分がこの人の一番になれればどんなに幸せかと夢想して。
人にあそこまで執着したのは初めてだった。
人を想ってあんなに辛くなったのも初めてだった。
誰かを好きになったのも灰崎が初めてだった。
灰崎が初恋だった。
声に出して言ったことはない言葉を頭の隅で誰にも聴こえないように呟く。
(好きだったよ、ショーゴ君)
俺は君に一生忘れられない恋をした。
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